装飾博物館 Musée des Arts Decoratifs と織物博物館 Musée des Tissus
二つの博物館は隣接していて関連性が深いので両方続けて見学。 18世紀の貴族の屋敷をそのまま利用しているので博物館ではあるものの当時の貴族の生活そのものを見ているような感じがする。 家具や調度、装飾品など展示物はどれも豪華で美しく、古くから繁栄してきたリヨンの豊かさを感じる。
特に興味を惹かれたのがカーテン、ベッドの天蓋、ソファの張地、壁紙等の織物類。普通の博物館では色褪せたものが多いが、ここではどれも新品のように色鮮やかで光沢があり、張りもしっかり。さすが絹の街。 後で聞いた話によるとベルサイユ宮殿などに納入されていた織物類の記録が今もリヨンの織物業者に残されていて、それをもとに再現が可能だったという。 ここの博物館の物もそうして再現されたのだろう。
リヨン美術館 Musée des Beaux-Arts
17世紀の修道院だった美しい建物。表通りとは美しい中庭で隔てられていて市民の憩いの場になっている。美術館は内容も充実していてとても快適に過ごしたが、その前に立ち寄った別館のエミール・ギメ展が印象的だった。
パリにあるギメ美術館の元はここだったのだ。 ここではギメが蒐集したミイラを始め世界旅行が庶民にとって遠い夢であった時代に美しいものを求めてアフリカ、中東、中央アジア、東洋、果ては1875年(明治8年)には日本まで旅をした彼の姿が見られて面白かった。
エミール・ギメ(Émile Guimet)は1836年生まれのリヨンの実業家。父は科学者、母は画家というアカデミックかつ芸術的な家庭に育つ。 父のジャン・バティスト・ギメ(1795-1871)は1826年に人工ウルトラマリンの製造法を発明する。それまでのウルトラマリン(青色顔料)はアフガニスタンなどで採取されるラピスラズリを粉砕して作られ、ヨーロッパでは金と等価に売買されるほど高価なものだった。 (ラピスラズリと言えばオランダの画家フェルメールが使って独特の深い美しい青色を出していた。) ギメの父が発明し、科学的に製造されるようになった人工ウルトラマリンのお陰でギメ家は膨大な財をなし、それがエミール・ギメの大旅行と蒐集の財源となったわけだ。
エミール・ギメは優れた実業家、美術蒐集家であるだけでなく、音楽の才能もあったようで、彼が作曲したオペラの録音が流れていた。 またエミール・ギメが旅した19世紀の映像も随所で見られて興味をそそられた。
ソーヌ川 Saone クルーズ
夕方近くになって前日乗り損ねたソーヌ川 Saone クルーズに再挑戦。切符売り場の女性は覚えてくれていて笑顔出迎えてくれた。
雨に煙るソーヌ川 Saone を巡る水上バス。
この橋を渡って左手の木立の後ろの建物は裁判所 Palais de Justice。数年前ここでナチ最後の大物の一人が裁判にかけられ刑が確定した。 レジスタンス運動が激しかった土地だけに市民にとって特別な思いがあったことだろう。
旧市街からケーブルカーに乗ってフルヴィエールの丘に登ってみた。まず辿り着いたのがノートルダム・ド・フルヴィエール・バジリカ大聖堂。 1643年ヨーロッパで猛威を振るった黒死病(ペスト)はリヨンの周辺も襲った。 人々は不安な毎日の中聖母マリアに祈りを捧げ、祈りが伝わったのかペストはこの丘までは登ってこなかった。 街の人々は聖母マリアに感謝するため寄付を募りここに聖堂を建てた、とある。
このあたりはリヨン発祥の地で近くにローマ時代の半円形野外劇場とガロ・ロマン博物館 Museé Gallo-Romaine de Lyon Fourvière があるのだが開館時間はとっくに過ぎていたため見ることはできなかった。
あいにくの天気でリヨンの街は雨に煙る。丘の真下はソーヌ川。その向こうに緑が連なっているのがソーヌ川と並行して流れるローヌ川。 その更に向こうはTGVパール・デュー駅や高層ビルがある新市街地。
天気が良ければこんな風に見えるのだろう。(リヨン観光協会のHPより)