Thursday 31 May 2012

月の港、ボルド- 2 Bordeaux, Port de la Lune-2

朝、ホテルのフロントで見覚えのある人だな、と思ったら2日前に山バスクの登山列車で乗り合わせた日本人女性二人連れだった。お互いびっくり。 偶然同じホテルに泊まっていたとは。でも彼女たちはチェックアウトを済ませ、タクシーに乗り込むところ。 もっと早く分かっていたら、と残念。

その僅かな時間に教えてもらったこと。すぐ近くのワインショップで日本の宅配会社を使ってワインを送ることが出来ると。 早速行って赤、白、ロゼ取り交ぜて6本オーダーした。 ワインはおいしくて安かったけど送料の方がよっぽど高くついた。 でも夫へのお土産はこれで心配しなくてよくなった。 

この日はワイン博物館、現代美術館、アキテーヌ博物館を見学。 ワイン博物館はガッカリだったがアキテーヌ博物館は規模が大きく内容も充実してアキテーヌの歴史も分かるし見ごたえがあった。

羊毛倉庫の建物をそのまま使った現代美術館の屋上。インストレーション?

公園 Jardin de Publique
 
翌日はリヨンに移動。 フランスの鉄道は南北には発展しているが東西が置き去りにされているようでボルドーから一旦パリ郊外まで行き、乗り換えるので7時間かかる。





Wednesday 30 May 2012

月の港、ボルドー1 Bordeaux, Port de la Lune 1

ボルドーはバイヨンヌと同じくアキテーヌ Aquitaine 地方に属する。 中世のアキテーヌ公の公女アリエノール Alienor は父亡き後、フランスの三分の一に当たる領地を相続する。 美しく聡明で高い教養を持った女性であったらしく、縁談は引く手あまた。 まもなくフランス・カペー朝第六代の王となるルイ7世と結婚する。 しかしその後離婚し、今度はアンジュー伯・ノルマンディー公アンリと再婚する。1152年にアンリはイギリス・プランタジネット朝初代の王になり、このことでボルドーを含むフランスの半分以上がイギリスの領地となり、それが300年続いた。 

つまりボルドーは300年間イギリスだったのだ。以来ボルドーワインの最大の市場はイギリスとなり、上質なワインを産出し続けてボルドーは繁栄する。

ボルドーというとワインとなるわけで、到着翌日にホテルからすぐの観光案内所でワイン・ツアーに申し込みその日の午後メドックへ。 ミニバスの運転手兼ガイド嬢と乗客6名で2か所のワイナリーへ。

一軒目のワイナリー。ここでワイン造りの行程などを見せてもらいながら聞いた話。ある時期からワインの澱を取り除くため卵白が使われるようになったのだが、残った卵黄の利用方を女性たちに考えてもらい誕生したのがワインと並びボルドー名産となった御菓子カヌレ canelé。
 
まず3種類試飲
 
2件目のワイナリーでは更に5種類試飲

ツアーから帰ってホテルで少し休んで街歩き。 2007年に世界遺産に登録されたボルドーの名所、旧市街地とガロンヌ川岸辺の再開発された一帯。 証券取引所前の広場 Place du Bourse。 初夏の陽気の元、水鏡 Mirroir d'eauで楽しそうに戯れる若い人たち。 ボルドーには大きな大学があるので若い人たちの姿が目立つ。
 
時間によってはこんなミストが立ち上って幻想的。
 
水鏡からガロンヌ川寄りは美しい広大な公園。
 
ガロンヌ川に掛るピエール橋 Pont de Pièrre。岸辺の公園では仕事帰りの人達のグループや家族連れがピクニックしたりギターを引いたり、初夏の夕暮れを楽しんでいる。
 
川べりの遊歩道ではローラースケートしたり、自転車に乗ったり、散策したり、子供を遊ばせる家族連れがいたり、皆思い思いに暮れなずむ陽を浴びながら楽しんでいる。この照明ゆっくりと点灯し始めているが周りが暗くなると走馬灯のように色が変わり、とてもきれい。 
 
旧市街へはこんな城門も。ケオ門 La Porte de Caihau
 
川や海の景色のある都市はいいものだ。ボルドーの街を流れるガロンヌ川は三日月形に湾曲していることで「月の港」という命名になったよし。 こういうの洒落ていていいなと思う。 

Tuesday 29 May 2012

ラ・リューヌ山 La Rhune とビアリッツ Biarritz

この日はボルドーへの移動日。 その前にもう一度山バスクと海バスクにひとっ走り。

プチ・トラン・ド・ラ・リューヌ Petit Train de la Rhune

まずはベイヨンヌから鉄道で20分のサン・ジャン・ド・リュズ St-Jean-de-Luz へ。そこから一日2本しかない(夏のピークシーズンには30分毎にあるらしい)バスに20分揺られてコル・ド・サンティニャス Col de St-Ignace で下車すると、ピレネー・アトランティックを登る登山列車プチトラン・ド・ラ・リューヌ Petit Train de la Rhuneの駅。 1929年から営業とある。
 
木製のおもちゃのような列車。 窓の代わりに茶と白の可愛いカーテンが。
 
 ほどなくピレネーの山中に。
 
こんな感じでゴトゴトと
 
登りつづけて
 
 頂上らしいものが見えてきた。
 
 30分ほどで頂上に到着。 ピレネー360度の大パノラマ。
 
頂上の建物の壁にこんなのが。峰を境にこちらはスペイン領のナヴァラ県ヴェラ・ド・ビダソア町ということか? 標高が905m。
 
そうこうしているうちに乗ってきた列車は乗客満載で麓の駅に。
 
その行先を追ってみると。麓から登ってきた列車とすれ違うところ。
 
少し離れたところで馬がのんびり草をはむ。
 
フランス側を望むと沿岸部分はよく開けている。近くに見える海岸沿いの町は多分サン・ジャン・ド・リュッツ St- Jean de Luz。 この日バイヨンヌから鉄道に乗って下りた駅だ。
 
左端の海岸線の町は多分オンダイエ Hendaye。サン・セバスティアンに行ったときにバスク鉄道に乗り換えたところだ。 もっと晴れた日にはサン・セバスティアンも見えるそうだ。
 
 
一方スペイン側を見渡すと、海も平地も見られず山間に集落のようなものがひっそりと。向こうに続く山々は険しそうだ。 スペイン人の言い分「神はフランスによい土地を与え、スペインにはよい人間を与えた。」
 
帰りの列車で乗り合わせた隣の人が鷹が大勢飛び回っているのを発見。 見ると子羊が襲われて倒れている。犯人はこの鷲。 美しい自然の中で生きる厳さ。
 

これでピレネーを地中海側と大西洋側と両方から登ることが出来て大満足。それもカタロニアとバスクという異なった歴史・文化をもった土地で興味は尽きない。
  
ビアリッツ Biarritz
 
12世紀頃のビアリッツはクジラ漁の漁港だった。17世紀中頃から徐々にクジラが取れなくなり、困った漁師たちはフランス王公認の海賊 Corsaires と化し18世紀まで物騒な時代が続いた。と、そんな頃、海辺での日光浴が健康に療養に良いということで保養地として新たな道を歩みだす。 
 
ビアリッツに決定的な変化をもたらしたのはナポレオン三世に嫁いだユジーニ妃。彼女はスペイン出身でビアリッツを知っていたため、ここにヴィラ・ユジーヌ Villa Eugenie を建て夫妻の別荘にした。 (この別荘は現在5☆ホテル、オテル・ドュ・パレ Hotel du Palais として復活) 時はベルエポック。 英国のヴィクトリア女王、スペイン王アルフォンス13世、ペルシャのシャー、ロシア皇帝ニコライ他ヨーロッパの貴族たちがこの地に魅せられこぞって休暇を過ごすようにになった。 王族や貴族が姿を消してからはココ・シャネルなどの実業家、映画スターやショービジネスの人たちがとって替わり相変わらずの華やかさだ。
 
世界的な映画祭の第一号としてベネチア国際映画祭があるが、時のファシズムを嫌ってフランスでも立ち上げようと候補に挙がった地が南仏のカンヌとビアリッツ。結果はカンヌに決まって今日に至っているが気候、風土、華やかさではビアリッツも負けていない、と思う。
 
さて、山から下りてそんな海バスクの高級リゾート地ビアリッツへ。 サン・ジャン・ド・リュッツに戻りそこから鉄道でベイヨンヌ方面へ15分ほどでビアリッツ到着。 駅から街までは離れているのでバスで。 街の中心に着いても観光案内所の標識が見当たらない。 カフェでくつろいでいるおじさま二人連れに住所を伝えて聞いてみたが分からない様子。 そこへ通りかかったマダムを呼び止めて訊いてくれた。するとマダム、「あら、私も丁度そこへ行くところよ。案内するわ、一緒に行きましょ。」 海岸に向かってなだらかな下り坂を何度か曲がり、街外れにある観光案内所に到着。 そこは市営のプレイガイドのようなものが併設されていてマダムはコンサートの切符を買いに来たのだ。 彼女は数年前にリタイアしてビアリッツに移住。 美しい街で気候はいいし住み心地は問題ないが新参者にとって溶け込むのは容易ではないそうだ。
 
美しい海岸、ラ・グランド・プラージュ  La Grande Place。 サーファーズ・パラダイスでもある。
 

ホテル、カジノ、映画館、ナイトクラブ、おしゃれなレストラン、カフェ、ブティックなど華やかな街並。
 
老舗のサロン・ド・テ、ミルモン Miremont
 
大きなガラス窓からは素晴らしいビーチが見渡せ、豪華な内装。
 
ラズベリー・タルトと珈琲。 新鮮なラズベリーがたっぷり。その下にあるグリーンぽいミント味のカスタードクリームが絶妙。 コーヒーとミルクもお替りもできるぐらいたっぷり。珈琲にはチョコレートも。
 
ここのウエイトレスが色々話しかけてくれてしばし楽しい時間を過ごした後、お土産にと言ってバスクの観光ガイドブックをプレゼントしてくれた。 中は美しい写真が満載で知らなかった町や村、そし地方地方のお祭りの時期や様子も紹介していて読みでがある。
 
沢山ある洒落たブティックの内、ふらっと入った一軒でバスク織りのティータオル torchon をお土産に購入。


 
駅に向かう途中サングラスのツルが緩んでいたので通りかかったメガネ屋で調整をお願いした。 若い男性店員は気持ちよく引き受けてくれ、わざわざ二階まで持って行ってきちんと調整してきれいに磨いて返してくれた。 礼を言って支払いを頼むと「いいんですよ。楽しい旅を続けてください。」と。 申し訳ないけど心からもう一度お礼を言って別れてきた。 先ほどのマダム、サロン・ド・テのウエイトレス、この人、またあちこちで道を教えてくれた人たち、皆一様に親切で気持ちよい人達。 そうした幸運な出会いのお陰で旅の印象はますます良くなる。 
 
サン・セバスティアンと言い、ビアリッツと言い、バスクには漠然と素朴なイメージを抱いていたのはとんでもない誤解だった。 やっぱり旅には出てみるものだ。 色んな人との出会いもあるし。
 
夕刻ベイヨンヌに戻り駅前のホテルに預けてあった荷物を引き取り、18:21発のTGVでボルド・ーサン・ジャン駅着20:01。 ボルドー駅からはトラムで街の中心にあるホテルへ。 フランスの主だった地方都市にあるトラムは本当に利用者に優しい優れもの。 
 
この時期のヨーロッパの日照時間は長いので9時、10時でも明るく時間が有効に使えて旅行には最適。 

Monday 28 May 2012

サン・ジャン・ピエ・ド・ポール St Jean Pied de Port

この日は山バスクへ。 ピレネー・アトランティックの山間に抱かれた巡礼の街、サン・ジャン・ピエ・ド・ポール St-Jean-Pied-de-Port。

フランス国鉄SNCFで行けるのだが駅の電光板にはバスに振替運行、とある。 定刻30分ほど遅れてバス到着。 空港バスのように車体の下の方に大きな荷物を入れるところがあり、大型の荷物や自転車を納めて乗り込む人が多かった。 因みにフランスの鉄道とトラムも自転車OKで、鉄道には十分な収納スペースが確保されてる。家族やグループで自転車旅行する姿もよく見られて、いいなと思う。バスは途中の鉄道の駅に止り、乗客を拾いつつ、終点のサン・ジャン・ピエ・ド・ポール駅に到着、バスク語では Donibane Garazi。 とてもひなびた駅。 
 
駅から10分ほどのどかな住宅地を歩き、大きな通りに出ると城壁に囲まれたそれらしいものが見えてくる。 さすがにバスク語表示が目立つ。 Goizeko Izarra って何だろう? 両脇の風車みたいな印はバスクのシンボル・マークだが。
 
観光案内所で地図をもらって少し回り道してみると、バイヨンヌを経て大西洋に流れ込むニーヴ川の畔にノートルダム大聖堂とノートルダム門。
 
ノートルダム門からシタデル通り Rue de la Citadelle に入ったところ。土日に続く祭日とあって結構な人出。
 
急な坂が続くシタデル通り
 
坂の途中から街を見下ろす。向こうにピレネーの山並みが。その向こうはスペイン。
 
この道沿いの本屋でバスク語のCDを買ってみた。マディ・オイエナール Maddi Oihenartのアルバム。 タイトルは「ハリ・ビル Hari Biru」。 のびやかでいて哀愁を帯びた歌声。 バスク語といいメロディーといい、どことなく懐かしさを感じるのは何故? 曲は Ikusiko dira berriz
 
 
ピレネーの山々に抱かれたバスクの美しい風土、長く複雑で謎の多い歴史、それゆえに豊かな文化に育まれて来たのだろう。 この地はかつてナヴァル王国の都市だった。 日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルも(現在はスペイン側の)ナヴァル王国出身のバスク人。 バスク語の由来は謎に包まれヨーロッパのどの言語とも共通性が乏しく、日本からやってきたのではないかという学者もいるほど。 日本人には発音しやすそうな感じがする。
 
ここはまた千年以上にわたって巡礼の地。 ヨーロッパをはじめ世界各国からやってきた巡礼はここで休んだ後ピレネーを超え、800km先のスペイン、イベリア半島北西端にあるキリスト十二使徒のうち最後の殉教者、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸が祭られている聖地サン・ジャック・ド・コンポステル St Jacque de Compostelleに向かう。 帆立貝(coquille Saint-Jacque)が巡礼路の印。 看板は町営巡礼宿泊所の案内。
 
こちらは民間の宿 auberge du pelrin。昔の巡礼はこんな出で立ちだったのだろうか。杖、帽子、マントはいいけど裸足は辛かろうに。

現代の巡礼はこんな出で立ち。
 
こちらは民宿。 ドアの右上に「巡礼 Pelrin 用お部屋あります」
 
こちらはもう少し規模の大きそうな簡易旅館。巡礼のリュック、杖、靴が目印。
 
ランチに巡礼定食 Assiette de Pelrinなるものを試してみた。生ハム、チーズ3種類、フレンチ・フライにピペラドかけ。それに白ワイン。€15 なかなか行けます、が、とにかく量が多い。
 
途中にこんなのも。昔の牢屋。 上の階でアート展をしていた。
 
この家のバルコニーと庇はバスク様式なのだろうか。
 
坂道を登りきるとサンジャック門
 
そこから右にそれて登って行くと城砦 citadelle が。現在は中学校として使われている。
 
帰りは城壁伝いに。
 
往きに通った道の家並みの裏側に当たり、今度は家々の裏庭を拝見しながら。同じバスク様式でもまた違った趣。
 
日中は好天で日差しが強かった。住宅街の庭でお爺さんが炎天下麦わら帽じゃなくてバスクのベレー帽を被って作業しているのを見て、あ、やっぱりと妙に納得。 山バスクの古の時代に思いを馳せながらバイヨンヌへ戻る。