Monday 28 May 2012

サン・ジャン・ピエ・ド・ポール St Jean Pied de Port

この日は山バスクへ。 ピレネー・アトランティックの山間に抱かれた巡礼の街、サン・ジャン・ピエ・ド・ポール St-Jean-Pied-de-Port。

フランス国鉄SNCFで行けるのだが駅の電光板にはバスに振替運行、とある。 定刻30分ほど遅れてバス到着。 空港バスのように車体の下の方に大きな荷物を入れるところがあり、大型の荷物や自転車を納めて乗り込む人が多かった。 因みにフランスの鉄道とトラムも自転車OKで、鉄道には十分な収納スペースが確保されてる。家族やグループで自転車旅行する姿もよく見られて、いいなと思う。バスは途中の鉄道の駅に止り、乗客を拾いつつ、終点のサン・ジャン・ピエ・ド・ポール駅に到着、バスク語では Donibane Garazi。 とてもひなびた駅。 
 
駅から10分ほどのどかな住宅地を歩き、大きな通りに出ると城壁に囲まれたそれらしいものが見えてくる。 さすがにバスク語表示が目立つ。 Goizeko Izarra って何だろう? 両脇の風車みたいな印はバスクのシンボル・マークだが。
 
観光案内所で地図をもらって少し回り道してみると、バイヨンヌを経て大西洋に流れ込むニーヴ川の畔にノートルダム大聖堂とノートルダム門。
 
ノートルダム門からシタデル通り Rue de la Citadelle に入ったところ。土日に続く祭日とあって結構な人出。
 
急な坂が続くシタデル通り
 
坂の途中から街を見下ろす。向こうにピレネーの山並みが。その向こうはスペイン。
 
この道沿いの本屋でバスク語のCDを買ってみた。マディ・オイエナール Maddi Oihenartのアルバム。 タイトルは「ハリ・ビル Hari Biru」。 のびやかでいて哀愁を帯びた歌声。 バスク語といいメロディーといい、どことなく懐かしさを感じるのは何故? 曲は Ikusiko dira berriz
 
 
ピレネーの山々に抱かれたバスクの美しい風土、長く複雑で謎の多い歴史、それゆえに豊かな文化に育まれて来たのだろう。 この地はかつてナヴァル王国の都市だった。 日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルも(現在はスペイン側の)ナヴァル王国出身のバスク人。 バスク語の由来は謎に包まれヨーロッパのどの言語とも共通性が乏しく、日本からやってきたのではないかという学者もいるほど。 日本人には発音しやすそうな感じがする。
 
ここはまた千年以上にわたって巡礼の地。 ヨーロッパをはじめ世界各国からやってきた巡礼はここで休んだ後ピレネーを超え、800km先のスペイン、イベリア半島北西端にあるキリスト十二使徒のうち最後の殉教者、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸が祭られている聖地サン・ジャック・ド・コンポステル St Jacque de Compostelleに向かう。 帆立貝(coquille Saint-Jacque)が巡礼路の印。 看板は町営巡礼宿泊所の案内。
 
こちらは民間の宿 auberge du pelrin。昔の巡礼はこんな出で立ちだったのだろうか。杖、帽子、マントはいいけど裸足は辛かろうに。

現代の巡礼はこんな出で立ち。
 
こちらは民宿。 ドアの右上に「巡礼 Pelrin 用お部屋あります」
 
こちらはもう少し規模の大きそうな簡易旅館。巡礼のリュック、杖、靴が目印。
 
ランチに巡礼定食 Assiette de Pelrinなるものを試してみた。生ハム、チーズ3種類、フレンチ・フライにピペラドかけ。それに白ワイン。€15 なかなか行けます、が、とにかく量が多い。
 
途中にこんなのも。昔の牢屋。 上の階でアート展をしていた。
 
この家のバルコニーと庇はバスク様式なのだろうか。
 
坂道を登りきるとサンジャック門
 
そこから右にそれて登って行くと城砦 citadelle が。現在は中学校として使われている。
 
帰りは城壁伝いに。
 
往きに通った道の家並みの裏側に当たり、今度は家々の裏庭を拝見しながら。同じバスク様式でもまた違った趣。
 
日中は好天で日差しが強かった。住宅街の庭でお爺さんが炎天下麦わら帽じゃなくてバスクのベレー帽を被って作業しているのを見て、あ、やっぱりと妙に納得。 山バスクの古の時代に思いを馳せながらバイヨンヌへ戻る。