Sunday 3 June 2012

リヨン 2 Lyon 2


旅に出てから初めてしっかりした雨に出会う。時折激しく降る中、リヨン最後の日の前半を美術館巡りで過ごす。

装飾博物館 Musée des Arts Decoratifs と織物博物館 Musée des Tissus

二つの博物館は隣接していて関連性が深いので両方続けて見学。 18世紀の貴族の屋敷をそのまま利用しているので博物館ではあるものの当時の貴族の生活そのものを見ているような感じがする。 家具や調度、装飾品など展示物はどれも豪華で美しく、古くから繁栄してきたリヨンの豊かさを感じる。 

特に興味を惹かれたのがカーテン、ベッドの天蓋、ソファの張地、壁紙等の織物類。普通の博物館では色褪せたものが多いが、ここではどれも新品のように色鮮やかで光沢があり、張りもしっかり。さすが絹の街。 後で聞いた話によるとベルサイユ宮殿などに納入されていた織物類の記録が今もリヨンの織物業者に残されていて、それをもとに再現が可能だったという。 ここの博物館の物もそうして再現されたのだろう。

リヨン美術館 Musée des Beaux-Arts

17世紀の修道院だった美しい建物。表通りとは美しい中庭で隔てられていて市民の憩いの場になっている。美術館は内容も充実していてとても快適に過ごしたが、その前に立ち寄った別館のエミール・ギメ展が印象的だった。

パリにあるギメ美術館の元はここだったのだ。 ここではギメが蒐集したミイラを始め世界旅行が庶民にとって遠い夢であった時代に美しいものを求めてアフリカ、中東、中央アジア、東洋、果ては1875年(明治8年)には日本まで旅をした彼の姿が見られて面白かった。 

エミール・ギメ(Émile Guimet)は1836年生まれのリヨンの実業家。父は科学者、母は画家というアカデミックかつ芸術的な家庭に育つ。 父のジャン・バティスト・ギメ(1795-1871)は1826年に人工ウルトラマリンの製造法を発明する。それまでのウルトラマリン(青色顔料)はアフガニスタンなどで採取されるラピスラズリを粉砕して作られ、ヨーロッパでは金と等価に売買されるほど高価なものだった。 (ラピスラズリと言えばオランダの画家フェルメールが使って独特の深い美しい青色を出していた。) ギメの父が発明し、科学的に製造されるようになった人工ウルトラマリンのお陰でギメ家は膨大な財をなし、それがエミール・ギメの大旅行と蒐集の財源となったわけだ。 

エミール・ギメは優れた実業家、美術蒐集家であるだけでなく、音楽の才能もあったようで、彼が作曲したオペラの録音が流れていた。 またエミール・ギメが旅した19世紀の映像も随所で見られて興味をそそられた。

ソーヌ川 Saone クルーズ

夕方近くになって前日乗り損ねたソーヌ川 Saone クルーズに再挑戦。切符売り場の女性は覚えてくれていて笑顔出迎えてくれた。
 
雨に煙るソーヌ川 Saone を巡る水上バス。
 
 
ソーヌ川からフルヴィエール Fourviere の丘を望む。頂上にはノートルダム・ド・フルヴィエール・バジリカ大聖堂 Basilique Notre-Dame de Fourvière が見える。  

この橋を渡って左手の木立の後ろの建物は裁判所 Palais de Justice。数年前ここでナチ最後の大物の一人が裁判にかけられ刑が確定した。 レジスタンス運動が激しかった土地だけに市民にとって特別な思いがあったことだろう。
 
旧市街からケーブルカーに乗ってフルヴィエールの丘に登ってみた。まず辿り着いたのがノートルダム・ド・フルヴィエール・バジリカ大聖堂。 1643年ヨーロッパで猛威を振るった黒死病(ペスト)はリヨンの周辺も襲った。 人々は不安な毎日の中聖母マリアに祈りを捧げ、祈りが伝わったのかペストはこの丘までは登ってこなかった。 街の人々は聖母マリアに感謝するため寄付を募りここに聖堂を建てた、とある。
 
このあたりはリヨン発祥の地で近くにローマ時代の半円形野外劇場とガロ・ロマン博物館 Museé Gallo-Romaine de Lyon Fourvière があるのだが開館時間はとっくに過ぎていたため見ることはできなかった。
 
あいにくの天気でリヨンの街は雨に煙る。丘の真下はソーヌ川。その向こうに緑が連なっているのがソーヌ川と並行して流れるローヌ川。 その更に向こうはTGVパール・デュー駅や高層ビルがある新市街地。
 
天気が良ければこんな風に見えるのだろう。(リヨン観光協会のHPより)
 
 

Saturday 2 June 2012

リヨン Lyon


フランス第二の都市、リヨン。 そこはフランスがまだ発展途上国であった頃、イタリア・ルネッサンスの影響をいち早く受け金融そして美食と絹の街として発展したリヨン。
 
リヨンでは地下鉄、バス、トラム、ケーブルカー等の公共交通機関乗り放題に加えて、ツアー、美術館、博物館の入場券も含まれているリヨン・カードというのを発行している。1日券、2日券、3日券と選べる。 私は2日券を€27を購入、これでTGVの駅リヨン・パール・デュー Lyon Part-Dieu 駅前の宿泊先ホテルと街の中心間の地下鉄、旧市街を歩くガイドツアー、水上バスツアー、そして美術館、博物館3箇所に使った。 大いに価値あり。
 
早速旧市街を2時間かけて歩くツアーに参加。参加者20数名の大多数は何故かオーストラリア人。 この時期南半球は冬なので太陽を求めてフランスでの休暇にやってきたのだろうか。 フランス人による英語でのガイドだったがとてもきれいな英語で分かりやすく説明も上手だった。
 
この日は日曜だったせいか広場でお祭りのようなものが模様されていた。
 
旧市街地の歴史的な建物や通りをあちこち案内してもらったが一番面白かったのは建物の間を縫うように張り巡らされた迷路、「トラブール」 Traboule 巡り。絹の街リヨンならではの話だが、出来上がった絹織物が雨に濡れないように運ぶためだとか、運ぶ途中でデザインを盗用されないよう、人目を避けるために作られたとか言われている。 リヨンはまたナチス占領下の時代パリに次いで最もレジスタンス運動が強かった都市だ。ナチに追われるユダヤ人や支援者がこれらの通りに逃げ込み追手を捲いたと言われている。 
しかし、毎日観光客がこんなに押し寄せて来るのに住人は文句を言わないのだろうか?
 
トラブールから出てきたところ。 
 
イタリア・ルネサンスを思わせる建物。
 
この後旧市街にあるガダーニュ博物館 Musée Gadagne でリヨンの歴史とマリオネットをを見学。 

晴天で暑い一日だったが夕方水上バスのクルーズーを待っている間に日射病になったのか猛烈な頭痛&吐き気に見舞われる。 乗船チケットを発行してもらった後だったので切符売り場の人にその旨伝えると、「それは気の毒に。この切符明日まで有効にしておいてあげるわ。明日も私がここの担当だから大丈夫。明日元気に出直して。」と、とても親切。ありがたい。 ホテルに帰ってしばらく休むと回復。 明日も頑張るぞーッ!






Thursday 31 May 2012

月の港、ボルド- 2 Bordeaux, Port de la Lune-2

朝、ホテルのフロントで見覚えのある人だな、と思ったら2日前に山バスクの登山列車で乗り合わせた日本人女性二人連れだった。お互いびっくり。 偶然同じホテルに泊まっていたとは。でも彼女たちはチェックアウトを済ませ、タクシーに乗り込むところ。 もっと早く分かっていたら、と残念。

その僅かな時間に教えてもらったこと。すぐ近くのワインショップで日本の宅配会社を使ってワインを送ることが出来ると。 早速行って赤、白、ロゼ取り交ぜて6本オーダーした。 ワインはおいしくて安かったけど送料の方がよっぽど高くついた。 でも夫へのお土産はこれで心配しなくてよくなった。 

この日はワイン博物館、現代美術館、アキテーヌ博物館を見学。 ワイン博物館はガッカリだったがアキテーヌ博物館は規模が大きく内容も充実してアキテーヌの歴史も分かるし見ごたえがあった。

羊毛倉庫の建物をそのまま使った現代美術館の屋上。インストレーション?

公園 Jardin de Publique
 
翌日はリヨンに移動。 フランスの鉄道は南北には発展しているが東西が置き去りにされているようでボルドーから一旦パリ郊外まで行き、乗り換えるので7時間かかる。





Wednesday 30 May 2012

月の港、ボルドー1 Bordeaux, Port de la Lune 1

ボルドーはバイヨンヌと同じくアキテーヌ Aquitaine 地方に属する。 中世のアキテーヌ公の公女アリエノール Alienor は父亡き後、フランスの三分の一に当たる領地を相続する。 美しく聡明で高い教養を持った女性であったらしく、縁談は引く手あまた。 まもなくフランス・カペー朝第六代の王となるルイ7世と結婚する。 しかしその後離婚し、今度はアンジュー伯・ノルマンディー公アンリと再婚する。1152年にアンリはイギリス・プランタジネット朝初代の王になり、このことでボルドーを含むフランスの半分以上がイギリスの領地となり、それが300年続いた。 

つまりボルドーは300年間イギリスだったのだ。以来ボルドーワインの最大の市場はイギリスとなり、上質なワインを産出し続けてボルドーは繁栄する。

ボルドーというとワインとなるわけで、到着翌日にホテルからすぐの観光案内所でワイン・ツアーに申し込みその日の午後メドックへ。 ミニバスの運転手兼ガイド嬢と乗客6名で2か所のワイナリーへ。

一軒目のワイナリー。ここでワイン造りの行程などを見せてもらいながら聞いた話。ある時期からワインの澱を取り除くため卵白が使われるようになったのだが、残った卵黄の利用方を女性たちに考えてもらい誕生したのがワインと並びボルドー名産となった御菓子カヌレ canelé。
 
まず3種類試飲
 
2件目のワイナリーでは更に5種類試飲

ツアーから帰ってホテルで少し休んで街歩き。 2007年に世界遺産に登録されたボルドーの名所、旧市街地とガロンヌ川岸辺の再開発された一帯。 証券取引所前の広場 Place du Bourse。 初夏の陽気の元、水鏡 Mirroir d'eauで楽しそうに戯れる若い人たち。 ボルドーには大きな大学があるので若い人たちの姿が目立つ。
 
時間によってはこんなミストが立ち上って幻想的。
 
水鏡からガロンヌ川寄りは美しい広大な公園。
 
ガロンヌ川に掛るピエール橋 Pont de Pièrre。岸辺の公園では仕事帰りの人達のグループや家族連れがピクニックしたりギターを引いたり、初夏の夕暮れを楽しんでいる。
 
川べりの遊歩道ではローラースケートしたり、自転車に乗ったり、散策したり、子供を遊ばせる家族連れがいたり、皆思い思いに暮れなずむ陽を浴びながら楽しんでいる。この照明ゆっくりと点灯し始めているが周りが暗くなると走馬灯のように色が変わり、とてもきれい。 
 
旧市街へはこんな城門も。ケオ門 La Porte de Caihau
 
川や海の景色のある都市はいいものだ。ボルドーの街を流れるガロンヌ川は三日月形に湾曲していることで「月の港」という命名になったよし。 こういうの洒落ていていいなと思う。 

Tuesday 29 May 2012

ラ・リューヌ山 La Rhune とビアリッツ Biarritz

この日はボルドーへの移動日。 その前にもう一度山バスクと海バスクにひとっ走り。

プチ・トラン・ド・ラ・リューヌ Petit Train de la Rhune

まずはベイヨンヌから鉄道で20分のサン・ジャン・ド・リュズ St-Jean-de-Luz へ。そこから一日2本しかない(夏のピークシーズンには30分毎にあるらしい)バスに20分揺られてコル・ド・サンティニャス Col de St-Ignace で下車すると、ピレネー・アトランティックを登る登山列車プチトラン・ド・ラ・リューヌ Petit Train de la Rhuneの駅。 1929年から営業とある。
 
木製のおもちゃのような列車。 窓の代わりに茶と白の可愛いカーテンが。
 
 ほどなくピレネーの山中に。
 
こんな感じでゴトゴトと
 
登りつづけて
 
 頂上らしいものが見えてきた。
 
 30分ほどで頂上に到着。 ピレネー360度の大パノラマ。
 
頂上の建物の壁にこんなのが。峰を境にこちらはスペイン領のナヴァラ県ヴェラ・ド・ビダソア町ということか? 標高が905m。
 
そうこうしているうちに乗ってきた列車は乗客満載で麓の駅に。
 
その行先を追ってみると。麓から登ってきた列車とすれ違うところ。
 
少し離れたところで馬がのんびり草をはむ。
 
フランス側を望むと沿岸部分はよく開けている。近くに見える海岸沿いの町は多分サン・ジャン・ド・リュッツ St- Jean de Luz。 この日バイヨンヌから鉄道に乗って下りた駅だ。
 
左端の海岸線の町は多分オンダイエ Hendaye。サン・セバスティアンに行ったときにバスク鉄道に乗り換えたところだ。 もっと晴れた日にはサン・セバスティアンも見えるそうだ。
 
 
一方スペイン側を見渡すと、海も平地も見られず山間に集落のようなものがひっそりと。向こうに続く山々は険しそうだ。 スペイン人の言い分「神はフランスによい土地を与え、スペインにはよい人間を与えた。」
 
帰りの列車で乗り合わせた隣の人が鷹が大勢飛び回っているのを発見。 見ると子羊が襲われて倒れている。犯人はこの鷲。 美しい自然の中で生きる厳さ。
 

これでピレネーを地中海側と大西洋側と両方から登ることが出来て大満足。それもカタロニアとバスクという異なった歴史・文化をもった土地で興味は尽きない。
  
ビアリッツ Biarritz
 
12世紀頃のビアリッツはクジラ漁の漁港だった。17世紀中頃から徐々にクジラが取れなくなり、困った漁師たちはフランス王公認の海賊 Corsaires と化し18世紀まで物騒な時代が続いた。と、そんな頃、海辺での日光浴が健康に療養に良いということで保養地として新たな道を歩みだす。 
 
ビアリッツに決定的な変化をもたらしたのはナポレオン三世に嫁いだユジーニ妃。彼女はスペイン出身でビアリッツを知っていたため、ここにヴィラ・ユジーヌ Villa Eugenie を建て夫妻の別荘にした。 (この別荘は現在5☆ホテル、オテル・ドュ・パレ Hotel du Palais として復活) 時はベルエポック。 英国のヴィクトリア女王、スペイン王アルフォンス13世、ペルシャのシャー、ロシア皇帝ニコライ他ヨーロッパの貴族たちがこの地に魅せられこぞって休暇を過ごすようにになった。 王族や貴族が姿を消してからはココ・シャネルなどの実業家、映画スターやショービジネスの人たちがとって替わり相変わらずの華やかさだ。
 
世界的な映画祭の第一号としてベネチア国際映画祭があるが、時のファシズムを嫌ってフランスでも立ち上げようと候補に挙がった地が南仏のカンヌとビアリッツ。結果はカンヌに決まって今日に至っているが気候、風土、華やかさではビアリッツも負けていない、と思う。
 
さて、山から下りてそんな海バスクの高級リゾート地ビアリッツへ。 サン・ジャン・ド・リュッツに戻りそこから鉄道でベイヨンヌ方面へ15分ほどでビアリッツ到着。 駅から街までは離れているのでバスで。 街の中心に着いても観光案内所の標識が見当たらない。 カフェでくつろいでいるおじさま二人連れに住所を伝えて聞いてみたが分からない様子。 そこへ通りかかったマダムを呼び止めて訊いてくれた。するとマダム、「あら、私も丁度そこへ行くところよ。案内するわ、一緒に行きましょ。」 海岸に向かってなだらかな下り坂を何度か曲がり、街外れにある観光案内所に到着。 そこは市営のプレイガイドのようなものが併設されていてマダムはコンサートの切符を買いに来たのだ。 彼女は数年前にリタイアしてビアリッツに移住。 美しい街で気候はいいし住み心地は問題ないが新参者にとって溶け込むのは容易ではないそうだ。
 
美しい海岸、ラ・グランド・プラージュ  La Grande Place。 サーファーズ・パラダイスでもある。
 

ホテル、カジノ、映画館、ナイトクラブ、おしゃれなレストラン、カフェ、ブティックなど華やかな街並。
 
老舗のサロン・ド・テ、ミルモン Miremont
 
大きなガラス窓からは素晴らしいビーチが見渡せ、豪華な内装。
 
ラズベリー・タルトと珈琲。 新鮮なラズベリーがたっぷり。その下にあるグリーンぽいミント味のカスタードクリームが絶妙。 コーヒーとミルクもお替りもできるぐらいたっぷり。珈琲にはチョコレートも。
 
ここのウエイトレスが色々話しかけてくれてしばし楽しい時間を過ごした後、お土産にと言ってバスクの観光ガイドブックをプレゼントしてくれた。 中は美しい写真が満載で知らなかった町や村、そし地方地方のお祭りの時期や様子も紹介していて読みでがある。
 
沢山ある洒落たブティックの内、ふらっと入った一軒でバスク織りのティータオル torchon をお土産に購入。


 
駅に向かう途中サングラスのツルが緩んでいたので通りかかったメガネ屋で調整をお願いした。 若い男性店員は気持ちよく引き受けてくれ、わざわざ二階まで持って行ってきちんと調整してきれいに磨いて返してくれた。 礼を言って支払いを頼むと「いいんですよ。楽しい旅を続けてください。」と。 申し訳ないけど心からもう一度お礼を言って別れてきた。 先ほどのマダム、サロン・ド・テのウエイトレス、この人、またあちこちで道を教えてくれた人たち、皆一様に親切で気持ちよい人達。 そうした幸運な出会いのお陰で旅の印象はますます良くなる。 
 
サン・セバスティアンと言い、ビアリッツと言い、バスクには漠然と素朴なイメージを抱いていたのはとんでもない誤解だった。 やっぱり旅には出てみるものだ。 色んな人との出会いもあるし。
 
夕刻ベイヨンヌに戻り駅前のホテルに預けてあった荷物を引き取り、18:21発のTGVでボルド・ーサン・ジャン駅着20:01。 ボルドー駅からはトラムで街の中心にあるホテルへ。 フランスの主だった地方都市にあるトラムは本当に利用者に優しい優れもの。 
 
この時期のヨーロッパの日照時間は長いので9時、10時でも明るく時間が有効に使えて旅行には最適。